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ひな祭りはいつ?その由来や起源など桃の節句のあれこれ総まとめ!

年中行事
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こんにちは、ぽんたろうです!

現代では当たり前のように、毎年3月3日にはひな祭りが行われます。
しかし、その期限や由来をご存知の方はけっこう少ないのではないでしょうか?

今回は、その辺りのウンチクをまとめてみましたよ!

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雛祭りの日にちはいつ?

雛祭りといえば3月3日の行事ですよね。
しかし、江戸時代までの雛祭りは旧暦の3月上旬に行われていました。

これは新暦の4月上旬ごろを指します。
明治時代、西洋に倣って改暦したことから、現在の新暦3月3日が桃の節句として定着、雛祭りが行われるようになったようです。

一方で旧暦の3月3日や、旧暦の桃の節句に近い新暦の4月3日に雛祭りを行う習慣が残っている地域も。
こうした旧暦で祝う習慣は、北陸や東北などの雪深い地域に多く残っているという特徴もあります。

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また、少数ながら八朔に雛祭りを行う地域もあります。
八朔とは8月の1日。
旧暦の八朔は、新暦の9月10日ごろ。
共通しているのは、八朔に雛祭りを行う地域では、雛祭りの時期に落城を経験していることです。

兵庫県たつの市御津町室津地区では、1566年(永禄9年)の1月1日に、室津城が敵の急襲を受け、落城しました。

この日は、城主の次男、浦上清宗の祝言の日。
室津の民は、おめでたいはずの日に亡くなった花嫁を悼み、雛祭りを延期。
半年遅れの八朔に雛祭りを行いました。

この八朔の雛祭り、一時は衰退した風習でしたが、近年、町おこしのために復活を果たしています。

香川県三豊市仁尾町でも、八朔に雛祭りが行われます。
これは仁尾城の前身であった仁保城が、1579年(天保7年)の3月3日に落城したため。

仁保城を攻めた長宗我部元親は城下にも火を放ち、その兵火により多くの死傷者が出ました。
痛ましい戦いのあった3月3日のお祭りを避け、八朔に武者人形と共に雛人形を飾る風習になったようです。

桃の節句とは?

中国から伝わった陰陽道の五節句の一つ、上巳の節句の和名が、桃の節句です。
上巳の節句である旧暦の3月3日は、桃の花が咲く時期であることから名づけられたのでしょう。

中国での上巳は、もともと川で禊を行い穢れを払う儀式の日でした。
これが次第に上流階級の宴と姿を変えて民に伝わり、春の水辺行う遊びや農事の節目になったとされています。

日本でも一部地域では、野遊びをしたり、草でひな人形を作る習慣があります。
また、弁当や野外料理を楽しむ、ピクニックのような風習がある地域もあり、現代でも一宇地域に伝承されています。

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五節句には他に、人日(七草の節句)端午(菖蒲の節句)七夕(たなばた)重陽(菊の節句)があり、それぞれ、七草がゆや菖蒲湯、たなばたなどが行われ、現在の暮らしにも根付いた行事となっています。
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ひな祭りの起源

ひな祭りの歴史は正確にはわかっていませんが、その起源の一つとなる雛遊びは平安時代には行われていたとされています。
当時は貴族の子女たちの雅な遊びで、宮中の暮らしを再現したドールハウスのようなものでした。

ひな祭りの起源のもう一端は、流し雛の儀式でしょう。
中国から伝わった上巳の節句は、川で穢れを洗い流す行事でした。
そのため人形に穢れを移して川に流す、流し雛が生まれ、後に災厄を肩代わりする「守り雛」として祀られるようになりました。

安土桃山時代以降には、節句の穢れ祓いとしての雛祭りが行われていたと推測されており、江戸時代ごろには雛遊びと、穢れ払いの儀式の結びつきから、雛人形も全国に広まったとされています。

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はじめは男女一対の内裏雛だけだった雛人形ですが、江戸時代、豪華絢爛な元禄文化の開花とともに次第に華美なものへと発展。
一生の災厄を肩代わりしてくれるという祭礼的な意味合いもあり、豪華な雛道具なども揃えられたとか。

江戸時代後期には精巧な平安装束を再現した、現在の雛人形の原型が誕生。
目にガラス玉を使った雛人形もこの時代に流通しました。

現在にも有名人形メーカーに名を残す、人形作家も江戸時代に活躍。
美しい雛人形を残しています。

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まとめ

雛祭りの起源はあまりよくわかっていませんが、江戸時代に発展した文化だということがわかりました。

地域ごとに祝う日は異なりますが、女児の健康や幸せを祈る気持ちは変わりませんよね。
雛人形を飾って、盛大にお祝いしたいものです。